生成について

 屋号「生成」は私の名前が由来ですが、仕事とは期限内に合格基準に達すれば成立するものとはいえ、突き詰めると何かしら未完成な「生成り(なまなり)」であること、仕事をすることによって様々な関係が「生成(せいせい)」されていくものという意味を込め、また語呂が良く日本語話者には親しみ易い音として(いなり)ということにしております。

※以下は「なんでも屋 生成」を営む成田生の私見です


主語の大きな話

 『小さな世界』という曲がありますが、歌われている同じ一つの狭い世界というのは、素材として私たちが共有し、また私たち自身を形作っているものという意味だと思います。でも置かれた環境や状況の違いの為にその認識は人の数だけ異なり、重なる部分もありつつ各自が「異なる世界」を生きています。同じ世界に生きる者同士としての単なる意見の相違であれば衝突で済みますが、自分と異なる認識で生きる者を認められない時、分断が起こります。あまりいい例ではないですが、嫌煙家は愛煙家の存在を許せないでしょう。喫煙者にどんなメリットが有ったところで、非喫煙者には有害でしかないからです。喫煙は呼吸に関する行為なので衝突が表面化し易いですが、仮に同じ地域で生活していても生活様式や習慣が自分と大きく異なる人の存在は知ることすら稀で、存在していないも同然です。自分の認識で限られた世界という意味では確かに『小さな世界』かもしれません。

 人間は困ったら知恵を絞ったりもしますが、結構いきあたりばったりで偶々生き残ってきたと思います。自分たちを守る筈の社会も、参加者の入れ替わりや環境の変化に応じて規範や常識を更新しないと機能不全を起こすものだと思いますが、もし他者の困りごとに気付かず、自分さえ困ってなければ変える必要を感じません。今の人間社会に有る分断は既得権益や富の独占の結果だったり、戦争による悲惨な経験の繰り返しだったり、個人的な異なる認識の潰し合いで負の感情ばかり生じた為であり、全体の最適化を目的とした話し合いのテーブルに付くことも難しいように思えます。分断は、自分が生まれる前から各地で同時多発的に繰り返されてきており、差別され蓄積した恨み怒り悲しみの固持やその発露に対しては、なかなか単独で抗えるものではありません。

 「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もありますが、残念ながらそんな人に出会ったことはないですし、理不尽に対してはただ忘却あるのみとすら思えます。搾取も戦争も無くならず、他人の目がなく自分さえよければ平気で非道を行ってしまえる人間と社会はクソです。それでも個々人を知れば良いところもあるものですし、適正に使われたり守られたりしていないものも多いですが、人間が過去の失敗から学び練られてきたルールも存在しています。人を諦めず、希望さえあれば生きていくこともできます。

私の希望

 機能不全を起こし弱者の不幸を前提に回っている社会に生まれてくる子は、どこでどう生まれようと基本的にかわいそうなのだと思います。「ここではないどこか」を求める人は後を絶ちませんし、大人になって実際に遁走する人もいます。私自身酒に溺れ呪詛を吐きつつ、海で野垂れ死ぬことだけはぼんやり決めていた青年でしたが、妻と出会い子の親になりました。だからという訳でもないですが、例えば独裁者のような許せない存在も、存在している事実は認めない訳にはいきません。クソの中で希望を見出していく方法を、子に伝えなければならないでしょう。それは想像する余裕です。

 便利屋は毎日違うことをしているのもあり、予想外、想定外な出来事は日常茶飯事です。それでも毎回必ずなんとかなり、こうして生き続けていられること自体が希望になっています。また希望を見出す方法のひとつとして、自分に出来ることをするのは当然ですが、出来ないことも少しやってみるようにしています。大変な思いをします。それでも続けると少しだけ出来るようになったりします。その選択をした時は特に意識している訳ではないですが、目を背けたくなる社会の大きな無理にも、少しだけ踏み込める力に繋がっている気もします。大変だ、どうしよう、が、なんとかなるかもしれないし、ならなくても死なないならやってみよう、になります。無理は禁物ですが。

生成する生き方

 子に限らず、私の個人的財産である経験や知識、習得した技術や所持する道具、人間関係も出来れば他者に開放していきたいです。それはよりよい社会や次代の幸福につなげる為などではなく、私が社会的な自分という偏り、アイデンティティを手放すことに快感を覚える人間だからです。また財産も権利も死んだら無意味ですし、私個人が生きて生じた貸し借りはゼロにして、人生を仕舞いたいという夢があります。ただの自然現象として存在できるのが理想です。何を言っているのでしょうか。

 偶に訪れる驚きさえあれば、楽しく生きていけます。驚きは自分の認識を変えてくれる出会いにあり、ものすごい芸術や衝撃的体験でなくても、目を向ければ予想外のものが、私の子もいっぱい見せてくれますし、自分と異なる世界を生きる他者にとって本気のもの、行動、表現は私の認識を変え、私の世界を揺さぶってくれます。私がそうであるように、中には明らかに間違っている部分もあるでしょうが、正誤性や好き嫌いはさて置きまずは不意に驚き、他者が生きる世界や認識の様相、個人史や思想、趣味嗜好を知り、自分の視点を相対化していきたいです。相対化すると同時に「自分も偶々こう在るだけの自然現象」という認識も強まり、気負いや固執が無くなっていくからです。

 外国に暮らす人だけでなく、自分の徒歩圏内に住む人々のことも、その場所のこと、そこにある物のことも私は何も知りません。また知ったところで自分の認識以上に理解することは出来ないでしょう。でも想像は出来ます。現在置かれてる状況を知り想像する余裕さえあれば、他者を許せなくなることも減り、問題意識はより本質に向かうかもしれません。私は面倒くさい考え方をする人間ですが人見知りは全くしませんし、すべきことをするのに悩みません。もし私に対して個人的なこだわりや不満を表現して頂けるなら、私に出来ること/出来ないことが生成/可視化され、出来ることをするでしょう。そして少しでも不満が解消されたらされた分だけ余裕が生まれ、生まれた余裕の中には異なる世界を生きる他者が持っている、世界に対する認識への想像も含まれ得るでしょう。日々驚きを求めて他者と関わり、なんでも屋を続けていきたいと思っています。

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